京都御苑(近衛邸跡周辺)
京都御苑(近衛邸跡周辺)

天文元年(1532年?)―天正三年(1575年)没。

1548年頃、ほぼ同年と思われる、朝倉義景の正室になる。関白近衛前久の娘とされる。

しかし、前久と義景の三歳の年齢差からして、前久の妹の可能性もあるという。

近衛前久は、公家であったが時流を見る目に長け、上杉謙信とも意気投合していた。

そしてこの前久が娘を嫁がせる事に決めた、朝倉義景は公家文化を愛好し、王朝の曲水の宴や観桜の宴、さらに犬追物などを好んでいた。

更に当時の越前も、小京都のような趣を見せるようになっていた。

「朝倉始末記」によると、この近衛殿の息女は、「容色無双」の美女だったという。

しかし、詳しい経緯はわからないが、おそらくいつまでも正室になった彼女に、懐妊の気配がない事が大きく関係し、朝倉義景は妻を疎んじるようになっていったようである。

また、当然このような事態を周囲も心配し、一刻も早く朝倉家に後継者をと、義景の側室探しを始めるようになる。

やがて義景の母の広徳院の侍女の小宰相が、側室として選ばれる事になった。

 

 

 

 

 

彼女は朝倉氏の要職にあった鞍谷刑部小輔副知の娘だった。やがて小宰相は正式に義景の側室となった。その内に小宰相は福岡石見守の屋敷に移り、義景は足しげく彼女の許に通うようになった。そして彼女は、人々の期待に応え、すぐに二人の娘を産んだ。

このような事から、「朝倉始末記」によると、近衛殿の御息所への義景の気持ちは、秋の森の梢の葉の如く、日々に薄くなり、夫婦の語らいもなくなった。そして御息所は館の窓に向かい、春の日の暮れがたしを嘆き、秋の夜長を恨んで沈み、訪れる人もなくなり、匂い袋の香りも消えて、暗き夜の軒を打つ雨音に、流れるのは涙だけであった。召使達は互いに嫉妬し合い、「御息所が小宰相を呪っている」との噂が立った。

ただ、この夫が新たに小宰相を側室に迎えた後の、夫婦関係の推移、そして近衛殿の息女の様子についてですが。

 

 

何だか一連の表現が、まるで物語のような感じであり、これら軍記物特有の修辞のようなものも、いくつか見受けられ、どこまでその内容も事実と判断してよいものか、難しい面もあります。

 

 

とはいえ、彼女にいつまでも子が生まれない事が関係し、また新たに、朝倉家の人々待望の子供を産んでくれた愛妾の小宰相の出現により、義景と彼女との仲が疎遠になっていった事、そして彼女の嘆きも、ある程度は想像できる事だと思います。

 

ただ、この近衛殿の息女に嫉妬して小宰相を呪詛云々も、どこまでが本当なのか、判断が難しいように思います。

 

 

 

このような事実はなくとも、恨み言を聞かされ疎ましくなったのか、ついに義景は永禄三年頃、妻を離縁して京都に送り返した。

そして更に彼女がいた館まで壊し、更にその地を一メートル掘り、土を入れ替えた上に、新しい館を建てそこに愛妾の小宰相を住ませて寵愛した。義景は朝倉考景と正室の広徳院の間に、遅くに恵まれた一人息子という事もあってか、特に天文十七年に、考景が死去してからは、夫に先立たれた母の広徳院に溺愛されて育てられたと考えられ、どうも思いやりに欠ける面がある人物だったようである。

 

 

 

 

それにしても、それこそ、武田信玄正室の三条夫人の家よりも、更に上級公家である、この近衛家の姫とのこの離婚は、ただの離婚ではなくて、京都との直接的な繋がりを、みすみす手放してしまったということでもある。

例えば武田信玄などは、京から来た正室である三条夫人のことを、けして手放していないというのに。

それに何も離婚までしなくとも、正室である近衛氏は、そのままの位置に据えておいて、側室の小宰相の生む息子を彼女の養子にさせるという方法だってあったと思うのだが。

まあ小宰相がそういう事を嫌がり、自分の生んだ子はあくまで自分の子として育てることを希望した可能性もあるが。どうも何となく、この小宰相といい、当主の愛妾かつ嫡男の生母としての専横が目立っていく、義景の後の愛妾の小少将といい、義景が寵愛した側室達も、あまり賢くないような。

 

やはり、何となく全体的に受ける印象からして、義景というのは、上洛して天下に号令する程の器の武将では、なかったという印象を受ける。

 

 

 

 

それから、この近衛氏の息女との、いかにも物語のような一連の離婚騒動については、「人物叢書 朝倉義景 水藤真 吉川弘文館」の中では、簡潔に彼女に子がないままだったので離婚したとだけしか書かれていない。

これらの「朝倉始末記」中での近衛氏の息女を巡る逸話の信憑性については、疑問が持たれているということかもしれない。

やはり、軍記物であるので、その内容には虚構も混じっていると見た方がいいのだろうし。

またあるいは、朝倉義景の二人目の正室の近衛氏の息女との離婚を正当化するために、このように仕立てられた話の可能性も、ある気がしないでもないし。

 

 

ちなみに、義景の愛妾の小宰相も待望の息子を産むも、早くに死去し、今度は次なる愛妾の小少将にすっかり参り、人事などにまで口を出させるなど、すっかり彼女の言いなりになってしまったらしい。

義景の彼女とその息子愛王丸への溺愛が伝えられている。更に、どうもこの最初の小宰相との息子の阿君は、自分の出世を目論む乳母の企みにより、結果として命を落すことになったらしく、このように朝倉家内部の人間により、大切な嫡子の命を奪われてしまうなど、義景の危機管理能力にも、疑問が持たれる。

 

 

 

 

 

どうも朝倉義景を見ていると、愛妾にまんまと鼻面を引きずり回されている感じが、大内義隆の正室の万理小路貞子が京から連れてきて、後に大内義隆の側室に納まっている侍女に、手を出すなどの女癖の悪さから、隙間風が吹き始めたと見え、結局最終的に離婚している大内義隆と何かと重なる。

やはり、愛妾の言いなりになってしまうような人物では、天下は狙えないということなのだろう。

そしてこのようにして、おそらく28歳くらいで離縁されたと思われる近衛殿の息女だが。

それから何年後の事なのか、またその経緯も不明だが、その後、奥丹波に勢力を張り、当時明智光秀の丹波攻略に猛然と反抗していた黒井城主の赤井(荻野)直正の妻になった。

彼も初めは反信長の同盟者の波多野氏の娘を妻にしていたが、先立たれていた。

ちなみに、彼は昔義父で舅の荻野伊予守を殺害し、黒井城を奪った事から、当時の人々から「悪右衛門」と呼ばれて恐れられていた男だった。

 

 

 

この直正と再婚した、この近衛氏の結婚生活の様子はわからないが、この結婚では一人の娘に恵まれた。地元には、彼女の化粧料をまかなった「姫田」の伝承がある。

彼女は戦国乱世の中での、自分の運命の変転・子が生まれないために最初の夫義景に疎まれ離縁された後に、再びこのような恐ろしげな人物に嫁がされた、我が身の薄幸を嘆きながらも、娘の養育慰めを見出していたのだろうか?

また、当時彼の政治活動のせいもあり、流浪していた兄前久が、一時妹夫婦の黒井直正の屋敷に逗留していたという。

このため、黒井城下館は「近衛屋敷」と呼ばれていた時期があったという。

近衛殿の息女は、久々の彼との再会を喜び、語らったのだろう。

 

 

そして天正三年の六月に、前久は京都に戻った。この二ヵ月後の、天正三年の8月21日に、近衛殿の息女は亡くなった。

法号は「渓江院殿月下笑光大姉」。

そしてこの三年後には、夫の直正も亡くなった。このため、この黒井城下館跡に建立された、興禅寺の開基となった夫直正との、夫婦連記の位牌がある。

ちなみに、明智光秀の丹波攻略により、黒井城が落城した後は、光秀の家臣であった斎藤利光の居城となり、ここで春日局が誕生したとされる。

そしてこのように、薄幸かつ歴史の波の中に埋没してしまった感のある、この近衛殿の息女とその再婚した夫の赤井直正の城としてより、現在では将軍徳川家光の乳母春日局生誕の地としての方が、圧倒的に有名かもしれない。

 

 

 

 

全体的には、薄幸な印象がする人生とはいうものの、もしあのまま彼女が朝倉義景の正室のままだったら、共に信長に滅ぼされる悲劇に遭遇していたかもしれない訳で、人間の運命とはわからないものですね。

朝倉氏滅亡の悲劇にあわなかっただけでも、まだ幸せだったのかもしれません。

また、夫直正の死去後、黒井城も光秀に滅ぼされてしまったそうですし。

ただ、不思議な事に、彼女は黒井では死なず、おそらく直正の死後、三度目の結婚をし、大和国国人古市播摩守胤栄の妻になったという話もあるらしい。

彼女こそが近衛前久の娘だという説もある。しかし、橋本政宣氏の「関白近衛前久の京都出奔」という論文によると、元和元年に死んでいるこの女性の戒名は「桂光院月可性高」で、表記は違うが、全て発音は興禅寺の位牌と一致するそうです。

そしてこの謎に関しては、現在も解明されていないままのようです。

私としては、むしろ、興禅寺の直正との夫婦連記の位牌の彼女の戒名と、こちらの戒名が同一である事に、むしろ引っかかるものを感じます。そもそも、なぜこのような事が起きるのでしょうか?

 

 

 

 

 

彼女のこの播磨守胤栄との三度目の結婚が本当なら、興禅寺にある、赤井直正と連記の彼女の位牌と戒名の方は、まちがいだったという事にもなりますよね?しかし、更に彼女の再婚先でも、その表記だけが違う、この最初の戒名と全く同じ発音の戒名が使われるなんて事が、あるのでしょうか?普通なら、再婚してそれから死去後に、新たに違う戒名が、付けられるはずだと思うのですが。どう考えても、この興禅寺の戒名と位牌の方が、先に作られたものだろうし。

やはり、この後の三度目の彼女の再婚話とそれに付随する戒名の信憑性の方を疑った方が、順当だと思うのですが。

 

 

 

 

 

ここからは、全く私の個人的な推測ですが。

おそらく直正の妻と胤栄の妻と、この二人の女性とも、共に近衛氏に関わる女性であったため、後に亡くなった胤栄の妻の方が、直正の妻と同一人物として誤伝された。

つまり、直正の妻だった近衛殿の息女が再び胤栄に嫁いだと解釈・誤伝され、そして戒名の方も、興禅寺の方のその戒名の発音は変えないままの物が使用され、表記に関しては当て字のような形で適当な文字が当てはめられたとか? 

何となく、後の戒名の表記をぱっと見た印象ですが、どうもこちらの表記の方が、当て字っぽい感じがするんですよね。

そしてこの、近衛氏の息女に関しては、現在なぜ異なる表記による同じ戒名が、並立しているのかという謎ですが。

つまりおそらくこれは、興禅寺の最初の近衛殿の息女の戒名の事がすでに知られており、それがそのまま表記だけを変えて、後の時代に転用されたという事なのではないでしょうか?

 

 

しかし、さすがに同一表記の戒名の使用というのは、差し障りがあるため、こうして戒名の表記だけが変えられたという事なのでは?

それに、こちらの女性の方は、位牌も現在存在していないようなのが、気になります。

そして、こちらの没年は元和元年と、両者の没年にも、かなりの食い違いがあるのも、気になります。

このように考えていくと、どうも、この後の方の胤栄の妻の戒名というのは、本人の死後、すぐに付けられたものではなくて、かなり経った後で付けられた、可能性があるのではないでしょうか?

そのため、両者の混同・誤伝などという混乱が生じたとも考えられます。

戦国女性に関しては、しばしば、こういう事もあるようなので。

 

 

 

 

という事で、私はこの近衛殿の息女の同一戒名は、これは両者の女性が同一であるという事を表しているというより、むしろこれは本来別の女性達が同一人物と混同されて伝えられた事をこそ、表わしているのではないのか?という結論になりました。やはり、この二つの戒名から、彼女達が同一人物であるとするには、一番の引っ掛かりを感じた点としては、表記以外は発音が全く同一であるという二つの戒名の、顕著な類似性からです。

そして更に付け加えるなら、播磨守胤栄の妻になったという、後の女性の方には、現在位牌も存在していないという点からです。 

近衛家の墓所大徳寺
近衛家の墓所大徳寺