永禄六年(1563)―慶長十五年(1610)。佐久間盛政と奥山雅楽頭貞勝の娘。

中川秀成の正室。

 

虎姫の父佐久間盛政は、柴田勝家の家臣であり、賎ヶ谷の戦いで、天正十一年の4月21日の早朝、盛政は秀吉方の武将だった、当時大岩山砦を守っていた中川清秀を奇襲し、十一時間にも渡る死闘の末、中川勢を壊滅させ、清秀を自害に追い込んだ。しかし、この戦いに盛政は勝利したものの、主君の勝家は秀吉との戦いに敗れ、自害。盛政も捕らえられる。しかし、この戦いで見せた彼の武勇を惜しんだ秀吉が、一国を与え家臣に召抱えようとする。しかし、これに対し盛政は、そうなればきっと将来自分は秀吉を討つ事になると言い、潔い死を望んだ。

盛政は京中を引き回された後、宇治川の槙ノ島で斬首された。享年30歳だった。

この盛政が死ぬ直前に、秀吉は中川清秀の次男で14歳の秀成に、これがお前の父の仇の盛政だと言って引き合わせた。

しかし、これに対し清秀は「私はこの人を憎いとは思いませぬ。戦場での勝ち負けは世の常。盛政は武勇に優れた人でございます」と答えた。そしてこれを知った盛政は、「見上げた息子だ、こんな男が娘の婿になってくれればよいが」という言葉を残し、死んだという。

 

 

 

この佐久間盛政には、母親の違う、清姫と虎姫の二人の娘がいた。

虎姫の母と佐久間盛政の結婚は、秀吉が仲立ちしたとされる。敗戦後にこの娘達は、母親と共に熱田神宮に逃げた。そして清姫の方は、千秋家の養女格となり、一族の正盛と結婚した。

だがしばらく経ち、盛政の直系である事がわかり、清姫の夫正盛と息子は殺害され、清姫は短刀で自害したという。清姫一家がこのような不幸に見舞われていた頃、虎姫の方は、夫と死別後、近江朝妻一万五千石の城主新庄駿河守直頼と再婚した母と共に、義父と共に暮らしていた。この直頼は秀吉の母の大政所の甥で、直頼も妻を失ったばかりだった。

 

 

 

 

 

このように、虎姫の姉の清姫の一家を不幸に落とした一方で、秀吉は妹の虎姫の方の嫁ぎ先を決めてやった。

その家が何と賎ヶ谷の戦いで虎姫の父の盛政が全滅させた中川家の、敵盛政を憎いと思わないと言った、あの中川清秀の次男の秀成だった。

夫の秀成14歳、妻の虎姫20歳だった。

虎姫は、秀成より6歳も年上だった。

しかし、二人は仲睦まじい夫婦だったという。だが、気が治まらないのは、清秀の母で夫を亡くした性寿院や家臣のほとんどが虎姫の父盛政により、大岩山砦でほぼ全滅という憂き目にあった、家臣達であった。太閤豊秀吉の命令であるから、この結婚に表立って反対はできなかったものの、家中にはこの虎姫を秀成の正室として迎える事への不満が燻っていた。

 

 

それでもまだ、当時秀成の兄秀政が当時三木城主で家督相続者と目されていた頃は、まだよかった。

しかし、彼が朝鮮出兵で戦死し、弟の秀成が中川家の家督を継ぎ、岡城六万六千石に移封されると、更に家臣達の気持ちは複雑だった。

今や、敵方の娘だった虎姫を城主夫人として戴かなければならなくなったからである。

結局、この空気を察した秀成は、家臣達への配慮から妻の虎姫を大阪屋敷に置く事にし、一度も自分の領地の岡城に連れてくる事はなかったという。

そして自分に健気によく仕えてくれる嫁の虎姫に、しだいに性寿院の心もほぐれ、恨みの心を消し、打ち解けるようになっていく。

 

 

夫秀成との間に、虎姫は四男三女と七人もの子供をもうけた。

夫秀成には愛され、そして姑の性寿院とも和解し、敵方の娘と疎まれていた中川家で自分の居場所を手に入れる事ができた虎姫だが、常に彼女の念頭を離れなかったのは、父盛政の寺を建立する事と佐久間の家を再興する事であった。

しかし、家臣団の中での賎ヶ岳の記憶はなかなか薄れる事がなく、虎姫の願いはなかなか果せないまま、月日が過ぎていった。

虎姫は47歳の慶長十五年の正月、七人目の子供を産んだ後、この出産が原因で死去した。

 

 

秀政はこの末子の内記に佐久間の家を継がせて、妻の長年の悲願を果たしてやった。しかし、まだ佐久間姓の使用は憚られ、初めは中川姓、後に性寿院の実家の熊田姓にする。

晴れて佐久間姓を名乗る事ができたのは、正徳四年(1714年)に死んだ熊田数馬からである。

虎姫は嫡子の中川久盛に盛政の寺を作るように遺言した。中川家藩主となった久盛は母の遺言を守り、寛永二十一年(1644年)に、佐久間盛政の法号の内の二字を取り、英雄寺を建立したのだった。