永録十一年(1568)―慶長六年(1601)。

和徳城城主小山内永春の娘。千徳掃部政武の正室。

戦国女性でお市といえば、二度の落城と最後に自害という、悲劇的な生涯を送った、織田信長の妹で、浅井長政正室のお市があまりにも有名だが、南部の地にも、印象的な生涯の同名の戦国女性が、存在している。

 

 

天正十三年、五月二十八日、田舎館城は津軽為信の三千の軍勢に包囲される。一方こちらの味方の兵はわずか三百三十余人ばかり。決死の戦いで、お市の夫政武は自害。

政武は三十七歳、この時死別した妻のお市は十七歳だった。

短い結婚生活だった。一時は殉死しようとした彼女だが、夫に託された、嫡子の七歳の武丸のために思い止まり、落城寸前に百姓姿に身をやつし、城外へと脱出。伝承によると城から二キロの垂柳の

小野家に、生まれたばかりの実子の方を預け、小野家はこの預けた子の末裔だとされている。

実はお市は政武の後妻であり、先妻が父の妹である叔母であった。これは、お市と夫との親子程の年齢差からも、納得できる。そして先妻の生んだ子が、嫡子の武丸だった。

そして実子を他家に預けた後、彼女は夫の言いつけ通り、武丸を連れ、垂柳に陣する浅瀬石城の千徳大和守政氏に救いを求めたと、推測される。

 

 

 

こちらの浅瀬石城の千徳家の方が本家であり、田舎館の方の千徳家は、分家だった。当時田舎館は南部氏への義を貫き、浅瀬石は為信についた。そして千徳政氏は田舎館城攻略に千五百の兵を出しもしていた。しかし、お市親子が自分の許へ保護を求めてくると、これを保護し、為信には内密で彼ら二人を自分の妻の於由貴の実家、多田玄蕃の許に匿ってやった。

彼女達親子は最初、目内、更に山を越えた相馬村の相内に住んだ。親子を匿う多田玄蕃は、関ヶ原合戦の為に東軍側として津軽を離れていった為信の留守を狙い反逆し、堀越城を襲撃し、一時は城を乗っ取る事に成功するが、火薬搬出の際の爆発事故で死んでしまう。

こうして、お市は為信への復讐の願いを断たれ、同時に頼みとする庇護者も失ってしまった。

そして夫政武との死別から十七年後、慶長六年の三月、津軽・南部の統一を果たし、そして関ヶ原合戦で徳川家康側につき、いよいよその地位を磐石にした津軽為信は、その余裕からこの日、居城の堀越城から近い清水森で、元亀二年の初戦以来、戦死した味方だけではなく、敵方の霊をも弔う大法要を十日間に渡り営んだ。

仮仏殿には十五メートルの須弥壇が設えられ、約百三十人の僧侶が居並ぶ。亡者の名は貴賎の別なく紺紙に金泥で記され、内陣に百八の灯明が灯され、花飾りを照らした。

そして法会四日目、大勢の参拝者の中には、かつて為信に

夫の政武を殺された、当時三十四歳になっていた、お市の姿もあった。やがてお市の順番がやって来ると、彼女は仏前に進み出て、「それ義によって軽きものは武士の命、情けにより捨てがたきは婦人の身なり。わが夫はなはだに武名を重んじ、すみやかに戦場一葉の露と身をなし給う」と一巻の文を、朗々と読み上げた。(「津軽一統志」)

そして、短刀を取り出すと、二度、自分の胸に突き立て、自害した。

華やかで厳粛な大法要の席は、一転、人々の悲鳴で包まれた。

夫と死別して十七年後、遂に望み通り、慕う夫の後を追ってお市は自害したのであった。

 

 

お市自刃の地である清水森には、彼女を祀る祠があり、そして千徳家と親しかった清藤家でも、政武とお市夫妻の霊が弔らわれている。