蓮水妙清
      蓮水妙清

永禄十年?(1567年)―没年不詳。

中川秀政の側室。古田重直の正室の芳心院の母。法号は、法蓮院。

父母が誰なのかは、わかっていません。

1583年頃に、ほぼ同年だったと思われる、中川清秀の嫡男中川秀政と結婚。

そしてこの秀政の正室は、織田信長の娘の鶴姫だった。天正十九年(1591)の十一月二日に、娘小長を産む。

しかし、この翌年の文禄元年(1592)に、夫の中川秀政は朝鮮出兵。

娘が生まれて早々に、蓮水妙清は夫と離れ離れになってしまうのである。

夫との別れに心を痛め、夫の無事の帰還を祈っていたと思われる彼女だが。

しかし、夫は帰らぬまま、文禄元年1592年)の10月、遠い異国の朝鮮の地で、戦死してしまったのである。彼は諸臣の諫めも聞かずに、水源城を出て、敵兵の潜む山野で無謀にも鷹狩をして、殺害されたのであった。享年25才だった。

 

 

 

 

 

この時、夫と死別した妙清は、まだ二十代後半だったと思われる。若くして夫に先立たれ、生まれたばかりの娘と共に残された彼女の嘆きは、いかばかりかと思われる。

なお、この時戦死した秀政の弟の中川秀成の正室となったのが、前述した、虎姫である。

その後、高流寺に所蔵されていた、

文禄五年の六月下四日に、彼女の寿像が描かれている。この「寿像」とは、生前に描かれた肖像画のことである。

保存状態も良く、高野山の持明院の、お市の方の肖像画と並ぶ、華麗で美しい戦国婦人の肖像画である。数珠を持った手を合わせた合掌姿で、面長の顔立ちに、切れ長の目に、鼻筋が通り、端正な容貌である。赤地に金色を中心とする、雲形文様の打掛姿に、長い黒髪を後ろに垂らしている。この絵には、「優婆夷蓮水妙清」とあり、これは出家せずに仏の弟子になった女性のことを言うため、出家にまで至らなくても、やはり若くして夫を戦いで失った事もあり、妙清は未亡人となった後、仏に帰依するようになっていたと考えられる。法号は「法蓮院殿蓮水妙清」。

 

 

 

本人の生前に描かれた、寿像ということで、この肖像画の史料的価値は高く、この蓮水妙清という女性も、お市の方と並ぶ、戦国時代の、絶世の美女であったことがわかる。

しかし、残念ながら彼女の人生の軌跡は、全くわからない。

ただ、娘の人生の方については、その片鱗を、多少窺うことができる。 

妙清の夫の中川秀政の叔母で中川清秀の妹のセンは、織田信長の重臣であり、中川家の家老を努めていた、古田織部重勝の正室となっていた。しかし、その後織部は豊臣秀吉の家臣として、引き抜かれた。

このため、織部の義弟の家続を美濃国から呼び寄せ、中川家の家老職を継がせた。

だが、中川秀政が朝鮮で戦死の四ヵ月後にこの家続も戦死。このため彼の弟の重則が、中川家の家老職を継ぐ事になったが、またまた彼も、関が原合戦に伴う九州の戦いで戦死。

 

 

その結果、妙清の娘小長の夫となる、中川重則の甥の古田重直が中川四代目の家老職を相続した。慶長十五年に、小長は十八歳で古田重直と結婚した。

しかし、この五年後、古田重直の正室になった小長を、思わぬ不運が襲う。当時徳川方の武将になっていた古田織部が、豊臣方内通の疑いから、正室センの産んだ息子と共に、切腹させられてしまったのである。そして藩主中川秀成に従い、京都の二条城に戦勝祝賀のために参上した古田重直に対し、古田織部の孫ということで咎めを受ける。

しかし、幸いな事に当時四歳となっていた嫡男竹松に罪は及ばず、相続を許された。

しかし、夫の重直は、七年間もの間、京都に罪人として拘束されて、夫婦は別離の日々を過ごさなければならなくなってしまった。

 

 

 

 

 

このように、妙清本人の人生に関しては、ほとんど判明していないので、このサイトで取り上げるのは、不適当なのかもしれませんが、個人的に興味を引かれたので取り上げることにしました。ただ、やはり、全体的に薄幸・心痛の多い人生だった感じがしますね。

しかも不幸が、古田重直に嫁いだ、娘の小長にまで及んでいる訳ですから。

妙清の美しい肖像画は、この彼女の娘小長の夫古田重直が隠居し、「中川素単」と名を改めた後、竹田市の城西町の高流寺に寄贈したものである。

 

 

ちなみにこの妙清の、美しい肖像画は、大阪城天守閣のホームページで現在も販売中の、「図録描かれた人々 大阪城天守閣収蔵肖像画展」で見る事ができます。

当サイトに掲載の、彼女の肖像画は、すでに十九年前に発行終了の、歴史雑誌の表紙に使われていた物を、使わせてもらいました。